月見呟(1)「無名の料理人から食のデパートへ」

2016年8月23日

「人生のさしすせそ」

野村ノート (小学館文庫)

 

 料理の「さしすせそ」は「砂糖、塩、酢、醤油、みそ」である。こじつけの感もいなめないが、よくできた言葉だ。では、人生の「さしすせそ」は何であろうか?「寂しさ」「静けさ」「好き」「セックス」「子孫」である。料理の「そ」が「みそ」というこじつけなのだから、人生の「そ」が「しそん」であっても構わないだろう。

 何が言いたいのかというと、人は孤独であり、異性との恋が寂しさを紛らわす。そして愛しあい、最後はファミリーとなる。人間及び動物、すべての生き物の存在意義は子孫を残すことなのだ。それ以上でもそれ以下でもない。それが言いたかったのだ。

 

 

ライバルと挫折

「日本の偉人シリーズ(19)『月見 呟(つきみ つぶやき)』」

月見呟は、調理法から飲食店経営に至るまで、数々の革命を起こした料理人・経営者である。

料理に関する幅広い技術・知識・経験を生かして数多くの人材育成をし、世に数多くの名料理人を輩出したことでも知られる。

40代で料理人として一線から身を引き、様々な形で食に携わった後、50代で経営者・人材育成の道へと進む。そこで数多くの食材、人材、店舗の再生・復活を成功させ、後に月見再生工場と呼ばれるようになる。

経営者としての集大成は、日本有数のフードサービス・IT企業「コケックス」。その始まりは小さな弁当屋だった。元事務員で後に右腕となる昔田、元運転手で後に人事部長となる飯口など優れた人材を発掘し、事業を拡大していく。

 

 料理人時代の月見は全くの無名と言っていい存在であった。彼の名が知れ渡ったのは料理人を事実上引退し、料理タレントになってからである。そのため、食事をつくる側というより評価する側、料理評論家やグルメレポーターとして認識されていた。ある時、テレビの企画で有名な飲食店を取材しようとしたところ、「包丁も握ったこともない奴に、うちの料理を評価してもらいたくない」とはねつけられたこともあったほどだ。後から調べたところ、その店主は月見の孫弟子にあたるとわかった。それくらい、月見は料理界に功績を残したにも関わらず、非常に影の薄い、表舞台には全くと言っていいほど登場しない人物であった。

 

 料理人時代の月見は、修行時代を除いて同じ店に2年といなかった。半年で店の仕事と味を完璧に憶え、さらに半年で店の売上を伸ばす。そのまた半年で今度は若手を育てつつ自らの技術を残し、最期の半年で新たな看板メニューを開発。それを置き土産に店を去るというのが、月見のやり方であった。時には偽名すら使い、自分の足跡を残さないようにしていた。

 

 その理由は諸説あるものの、同時代に圧倒的な知名度を誇った料理人「日向 葵(ひなた おあい)」がいたからだと言われている。彼は元々同じ料亭で修行した仲だったが、師匠と喧嘩し破門、その後勝手に店を出してしまった。料亭の兄弟子たちが「どうせ失敗する」と噂する中、日向の店は大繁盛。高級路線の料理屋でありながら店舗を次々拡大し、商業的にも大成功。国内外の評論家からも絶賛され、料理人としてまさに「完璧」なまでの成功を果たした。

 

 修行に本当に意味があるのか? 料理の腕は結局センスで決まってしまうのではないか? そして何より、自分がどうひっくり返っても、料理人として日向には絶対に敵わないという事実。月見はこれらのジレンマに苦しんだ結果、無名の料理人としての道を進むことに決めた。その代わり、彼は料理の技術を極限まで磨き上げ、それを世の中の料理人に広めることを使命とした。後年、料理人としての月見が評価され始めた頃、彼を言い表す言葉として、次のようなものがあった。

「すべての料理人は月見の影響を受けている。と同時に、すべての料理人はそれに気づかないまま死んでいく」

 

 結果的に、月見は50代になってようやく「料理人」として評価されるようになり、今ではその名を知らない料理人はいないほどだ。しかし、本人の心中は複雑なようだ。

「今更評価されたところで、何にも嬉しくない。若かりし時代は二度と返って来ない。中年の女性に、『若いころは綺麗でしたね』と言ってみなさい。むしろ残酷だ。それなら、今の私を褒めてくれ。とは言っても、褒めるなどないだろうがね」

 無名の料理人として長く働いた月見は、見事なまでの皮肉屋になったというわけだ。

 

食のマルチタレント

 40代で一度厨房から離れた月見は、料理番組の出演と番組構成、レストランの格付け調査員、料理本での連載、食品メーカー顧問など、幅広く料理に携わっていった。他にも、給食センターでの献立編成、体育大学での栄養学客員講師、ペットフード開発、動物園の栄養アドバイザー、牧場と農場の経営、魚の養殖までやった。

 

 さらに、食器の研究として陶芸を行い、その延長線で茶の研究、食の礼儀作法、多機能エプロンの開発、「美味しい食事は健康な口内環境から」ということで歯ブラシの開発、「質の高い睡眠は最高の調味料」ということで枕の開発、女性や高齢者向けの安眠指導もやった。こうなると、食は何にでも結びつけることができる。月見自身もそれに気づいており、建前は「食」としつつも、全く関係のない仕事までどんどん手を広げた。いつだったか、バラエティ番組ではホットコーヒーの入ったマグカップを手に、ジェットコースターに乗って絶叫し、100デジベルを記録した。

 

 とにかく、月見はあまりに幅広い仕事に手を出した。そのため、彼は「食のデパート」と呼ばれ、時には「いや、ただのデパートだ」などと揶揄されることもあった。しかし、それをむしろ月見は喜び、テレビ出演の際には「デパート月見」という芸名を使い「ようこそいらっしゃいませ」というキャッチフレーズを多用した。しかし、それほど流行らなかった。とにもかくにも、40代から50代にかけてのこの時期は、月見の知見を広げるという重要な意味があり、その後の店舗経営・人材育成における料理界への多大なる貢献へとつながっていくのである。

 

 次回は月見再生工場ついて話をしよう。

 

続く

今日の格言

「中年の女性に、『若いころは綺麗でしたね』と言ってみなさい。むしろ残酷だ。それなら、今の私を褒めてくれ。とは言っても、褒めるなどないだろうがね」(月見呟)