「道理の前で(掟の門」(フランツ・カフカ)のあらすじ・考察(解説)

2014年3月31日

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本文

 道理の前でひとりの門番が立っている。その門番の方へ、へき地からひとりの男がやってきて、道理の中へ入りたいと言う。しかし門番は言う。今は入っていいと言えない、と。よく考えたのち、その男は尋ねる。つまり、あとになれば入ってもかまわないのか、と。
「かもしれん。」
 門番が言う。
「だが今はだめだ。」
 道理への門はいつも開け放たれていて、そのわきに門番が直立している。そこで男は身をかがめて、中をのぞいて門の向こうを見ようとした。そのことに気づいた門番が笑って、こう言った。
「そんなに気になるのなら、やってみるか。おれは入ってはいかんと言っただけだからな。いいか、おれは強い。だが、おれはいちばん格下の門番にすぎない。部屋を進むごとに、次々と門番が現れるだろう。そいつらは、前のものよりもっと強いぞ。三番目の門番でさえ、おれはそいつを直視することもままならん。」
 これほどの難関を、へき地の男は予想だにしていなかった。道理は誰にでもいつでも開かれているはずなのに、と思った。だが、男は門番をじっと見つめた。門番は毛皮のコートに身を包み、大きなかぎ鼻を持ち、黒く長いモンゴルひげをひょろりと生やしている。そのとき男は心に決めた。むしろ、入っていいと言われるまで待つのだ、と。門番が男に腰掛けを与え、門のわきへ腰を下ろさせた。その場所で、男は幾日も幾年も座り続けた。男は、入ってもいいと言われたくて、さまざまなことを試してみた。だが、あまりにもはげしいため、門番をうんざりさせた。門番は、幾度となく男に簡単な尋問をおこなった。男の出身地をあれやこれやと問いつめた。それ以外のことも同じように訊いたが、その問いかけは目上の人間がする一通りのものにすぎず、いつも終わりに門番は男へこう言うのだった。今は入っていいと言えない、と。
 旅のために男はあらかじめたくさんのものを持ってきたが、すべて使ってしまった。だが、どれもずいぶん役に立った。門番に賄賂を贈ったのだ。この門番はどれもみな受け取りはしたが、そのときにこう言い添えるのだった。
「一応もらっておく。やり残したことがあるなどと思ってほしくないからな。」
 何年ものあいだ、男はほとんど休みなく、門番から目を離さなかった。そのうち男は他にも門番がいることを忘れ、最初のこの門番が、道理へ到るための唯一の障害だというふうに思えてきた。男は不幸を嘆いた。はじめの一年はなりふり構わず声を張り上げていたが、年老いてしまうともう、ただいつまでもだらだらとぼやくだけだった。
 子どもっぽくなった男は、門番をずっとつぶさに見てきたからか、なんとその毛皮の襟巻きにノミがいると気づいた。そこで、男はそのノミに、助けてくれ、あの門番を説得してくれ、と頼み込んだ。ついには視力も衰え、男は本当に暗いのか、ただ目の錯覚なのかが、わからなくなった。とはいえ、暗闇の中、道理の門から消えずに差し込んでくる光が、男には今はっきりと見えた。もう、男の命ももはやこれまでだった。死を目前にして、男の頭の中で、今までの人生すべての時間が、ひとつの問いへと集束していった。それは男がこれまで門番に一度も訊いたことのない問いだった。男は門番に、手を振って知らせた。身体がこわばって、もはや自力で起き上がることができなかった。門番は男のためにしゃがみこんだ。ふたりの大きな身長差が、今は男にとってずいぶん苦しいものとなっていたからだ。
「今さらいったい何を知りたいというのだ。」
 門番が訊く。
「欲張りめ。」
「だが、万人が道理を求めようとするではないか。」
 男は言った。
「どういうわけで、長年にわたって、わたし以外に誰も、入ってよいかと聞きに来ないままだったのだ?」
 門番は気づいた。男はもう、今わのきわにいる。かすかな聴覚でも聞こえるよう、門番は男に大声でどなった。
「ここでは、他の誰も、入ってよいなどとは言われん。なぜなら、この入り口はただお前のためだけに用意されたものだからだ。おれはもう行く、だからこれを閉めるぞ。」

はじめに

 カフカの短編の中でも有名な話のようで、短篇集においても冒頭に置かれています。特に、読み手によって解釈が様々に異なると言う点で、有名だそうです。

考察(解説)

 この話は、一読しただけでは、物語に出てくるものが一体どのような意味を持っているのか、さっぱりわからないかもしれません。しかし、何を意味しているのかはわからなくとも、何か重要な意味を含んでいると、直感的に思わせます。これが、この物語のすごいところでしょう。
 二度目にじっくり読むと、ぼんやりとその意味が見えてきます。はじめに、道理とその門番は一体何を表しているかです。これは正義とか道徳、あるいは「たてまえ」と言った方がいいでしょうか。全体としては、例えば正義などといったものは、あくまでたてまえとして世の中に存在しており、時にはそれを破ったりなどして、最終的には自分でつくりあげなければならないことを表しています。

 まず、門を超えるというのは、主人公にとっては正義や道徳を得ることです。この世における正しいルールを得たいという気持ちは、万人に共通のものでしょう。しかし、道理への門は開け放たれているのに、門番は入ってはいけないと言います。
 
この門の状態と門番の態度とは、まさに、「正義や道徳は自分でつくれ」という意味を表しています。言い変えれば、正義や道徳は各人が独自のものを持っていいが、そのためには一度、たてまえとしての既存の正義や道徳を破り、あるいは乗り越える必要があるというわけです。
 例えば、法律を厳格に守って生きようとすれば、現実社会ではいろいろな不都合が起きます。法定速度を厳格に守って自動車を運転すれば、そこらじゅうで渋滞が起きて大変なことになります。公共交通も機能しなくなるでしょう。

 こういった微妙なニュアンスが、門番のどっち付かずの態度として描かれているのです。また、主人公は「道理は誰にでもいつでも開かれているはずなのに」と嘆きますが、これは正義や道徳というものを馬鹿正直に受け止めているわけです。
 男は許可が出るのを待ったり、そのために賄賂を送ったりしますが、効果はありません。本当の正義や道徳を知るには、自分で門を超えるしか無い、逆に言えばそれだけでいいのですが、男はそれがわからず、相変わらず門の前で嘆くばかりで、ついに年老いてしまいます。
 そして最後に門番は「この入り口はただお前のためだけに用意された」と男に告げます。この部分が、「正義や道徳は自分でつくるもの」ということを表しているのです。

おわりに(感想)

 あくまで個人的な解釈でしたが、このように道理の門を正義と解釈するのも、典型的な解釈の一つに含まれているようです。カフカの短篇集などのあとがき、あるいは青空文庫にもあとがきがあり、そこでも解釈についていろいろ書かれてあります。いろいろな解釈を読んでみるのも楽しみ方の一つです。

参考文献

 

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