『告白』(町田康)のあらすじ・レビュー

明治時代の「河内十人斬り」を題材にした、社会不適合者の男の生涯!

告白 (中公文庫)

 

『告白』のあらすじ

 時代は明治。大政奉還を経て社会が様変わりする中、三十歳を過ぎて酒、女、博打に溺れ、暴力沙汰も起こす無法者の城戸熊太郎という男がいた。江戸末期、大阪南東部にある、奈良との県境にある田舎の農村に生まれた熊太郎は、両親から寵愛を受けて育った。しかし、当たり前のことが出来ない不器用さから近所の子供にいじめられるようになる。家では褒められて、外ではいじめられ叱られ、そこににわかに矛盾を感じ始めていた。

 熊太郎には思弁的なところがあり、思ったことをすぐ口にする村の者に違和感を感じており、自然と内省的な性格となっていった。そして、いつしか物事に真面目に一生懸命取り組むことに恥ずかしさを感じるようになった。そんな熊太郎は、村の子供達との相撲をするときでも、全力を出さず、ヘラヘラしながら負けてばかりいた。しかし、相手の力を利用して負かす、「うっちゃり」のような技術を身につける。正面から全力で取り組まないという性格から生まれた技だったが、それによって熊太郎は「強い者」と認識されるようになる。また、喧嘩の際には腿のつけねを膝蹴りしたり、護身術のようにして腕を捻るという、腕力任せではない、言わばひねくれた技を身につけ、いつのまにかガキ大将となっていた。

 そんな熊太郎の前に、「森の小鬼」と名乗る気味の悪いガキがやってきた。つり目に真っ赤な唇。痩せていて、人を馬鹿にしたように笑っている。この森の小鬼の登場によって、熊太郎はその先の人生で苦難を味わうことになる。小鬼は熊太郎のインチキ相撲を見破り、勝負を挑んできた。しかし、小鬼は貧弱で、熊太郎はあっさり投げ飛ばし、勢い余って小鬼の腕を折ってしまう。小鬼とはそれきりだったが、お互いに因縁ができてしまった。復讐心に燃える小鬼は、兄と共に熊太郎をあるところへ連れ込む。そこは、丘の上にある穴、その中に広がる岩室であった。中には石の棺と、その周囲には装飾品や宝石の数々。ここは古代の豪族の墓であり、小鬼もまたその一族だと言う。そして、熊太郎は化け物のような兄弟に「殺す」と脅される。熊太郎は自分の命を守るために抵抗し、子鬼の兄を殺してしまう。

 熊太郎は二十三歳にして酒と博打に溺れていた。そんな熊太郎は、賭場で「弥五郎」という少年と出会う。賭場で負けが込んでいよいよ衣服を脱いで賭けるといったところで、現れたのがその少年だった。わずか十四歳で大金を手にし、「賭けさせろ」と言う。賭場の大人たちは拒否するが、生意気な弥五郎に腹をたてて暴力を振るい、おまけに金を巻き上げようとした。それを見ていた熊太郎は、良心に耐え切れず弥五郎を救ったのだった。弥五郎は物心ついたときから妹と二人、若くして奴隷となり、重労働から逃げ出して放浪の身であった。弥五郎とはそこで一旦別れるものの、熊太郎にとって生涯最も深い絆で結ばれる人間の一人となるのであった。

 酒と博打に溺れながらも、熊太郎はまともに生きようと考え、農作業をしたこともあった。しかし長続きせず、何年も遊び呆けていた自分と、すっかり一人前の百姓になったかつての友人たち。両者の歴然とした、埋めがたい差に絶望していた。そんな中、森の小鬼とそっくりの「熊次郎」という男に、熊太郎は出会うこととなる。この熊次郎は地主の息子であり、筆舌に尽くしがたいほど性根の悪い人物であった。この熊次郎によって、熊太郎は金に、女に、暴力沙汰に、ありとあらゆる苦難を受けることとなり、ついに熊太郎は我慢ならず、ある決意をすることとなる。

 賭場で出会った弥五郎を舎弟に従え、熊太郎は積年の恨みを果たすべく、歴史に残る大事件を起こす。

 

『告白』の感想

思考と言葉の不一致

 熊太郎は人生というものを正視するのを避けていたのかもしれない。例えば腹が減ったときには「食いたい」と言えばいいのだが、食うことの意味を考え始める ときりがない。食うのは生きるためであり、生きることは究極的には無意味である。人間にとって根源的な欲とも言える「食欲」が無意味であるという事実に、 熊太郎は怖れていたのである。食欲を「食いたい」という言葉で外に出したところで、食欲は満たされるが食欲の本当の意味、生きる意味など見つからない。その恐怖心から逃れるために、彼は思考と言葉との間に間隔を設け、それをどんどん引き伸ばしていくことにしたのだ。無意識にそうしたことで、 気がつけば彼の思考と言葉の間には無限とも言える距離が生まれてしまい、彼はそれを「思考と言葉の不一致」として認識したのだ。

 そこには、彼の育った環境も関わっている。幼い頃、彼は両親から寵愛され、とにかく褒められて育った。例えばコマ回しの話でも、彼は自分をコマの名人と思っていたが、実際には簡単な技もできないヘタクソであった。これは両親が甘やかしたせいで、イメージと現実の間のギャップが広がってしまったことで起こった。熊太郎は近所の子供に馬鹿にされ、恥をかいた。もしそこで必死にコマを練習したなら、熊太郎の人生は変わっていた。しかし、熊太郎は、コマ回し以外のことにも、ギャップをつけることにしたのだ。あらゆることにギャップをつけること、間隔を広げること。思考と言葉の間に隔たりを設けてしまえば、彼はそれを言い訳に、自分の能力の無さから目を背けることができる。それどころか、頭の中で他の誰も考えないような複雑な思考を繰り広げることで、優越感を感じることさえできる。

 考えてみれば、熊太郎は自分の欲望に対して従順とは言えない生き方をしていた。三十を越えてようやく女を知ったのも、その一つだ。それだって、欲望の対象をいざ手にしてみると、思っていたほどの価値などなく、あるいは思っていたような意味はなく、そこで幻滅してしまうのを怖れていたのだ。熊太郎が 幼い頃に思ったように、それが単なる「恥の意識」から来るものであったらどうだろうか。その場合、恥をさらしたのに欲望が叶わないという恐怖心もあるし、 欲望の対象が自分がさらす恥の大きさに見合ったものであるのかという懐疑心もある。いずれにしても、現実から目をそらすための行為には変わりない。

 葛木ドールとの一件についても、同じことが言える。熊太郎自身にとっては、あの事件こそが自分の人生を狂わせたという認識になっている。しかし、後になって熊太郎が葛木ドールを殺したかどうかは曖昧に、むしろ勘違いだったということになっている。これは、熊太郎が無意識に行った「記憶と事実のギャップを広げる作業」の結果である。

 このようにして、簡単に言えば現実逃避をしてきた熊太郎は、こんなことを言っている。「自分の思想と言語が一致した時、俺は死ぬ」。これが現実となるのは、熊太郎が自決するシーンだ。しかし、そこに辿り着くまでにはいくつかの「きっかけ」が必要だった。具体例をあげると、一つは、先ほどの葛木ドールの一件だ。人殺しという罪の意識を背負うほどの事件が、その真偽が曖昧になってしまったことさらに、神の使いであるとさえ考え、熊太郎の中で理想化していた縫が、ただの淫乱だとわかったこと。加えて、そして、正義や公正を信じた訴えが、熊次郎に鼻で笑われたことだ。これらはすべて、彼の中にあった重苦しく壮大なイメージ(思考)が、あっけない現実(言葉)となって現れたことだ。

 普通の人間は、幼いうちに思考をそのまま言葉にし、その言葉に対する他人や社会の反応を見て、両者のほどよい間隔を保つようになる。幼いうちに経験する「思考と言語の一致」それに伴う「反応」はそれほど大事にはならない。しかし、熊太郎のように、思考を言葉にすることをことさら怖れ、それを大人になっても我慢し続けてしまうと、いざ思考と言語が一致した時の反動は取り返しの付かないものになる。熊太郎は、四十近くなるまで思考と言葉の一致を経験せず、やくざ者になり、金と酒と女に溺れ、人殺しをしてようやくそれを果たした。しかし、そこまでした先にあったのは、なんてことはない、ただの「無」であったのだ。

 あるいは、こういう考え方もできる。熊太郎の言う「思考と言葉の不一致」とは、熊太郎の語彙と思考力が不足していたにすぎないという考え方だ。
例えば、熊太郎と同じくらい思弁的な人がいて、かつその思考を自在に操れる人がいたとする。しかし、自分の頭に浮かんだことを自由自在に表現できたところで、自己の存在が他の人に比べて確かなものになるという保証はない。当然、人生を思い通りにできるという保証もない。思考を自在に言葉で表現できるが故に、熊太郎以上に自己や人生について悩む可能性だってある。そう考えると、言葉を思い通りに操れることと、その人の人生の成り行きとは、直接関係があるとは言えないのである。従って、思考を言葉に出来ないことにことさら悩み、一生かけて答えを探していた熊太郎は、意味のないことを延々としていたに過ぎないのだ。

 

「ようじょこ」のシーン

 百姓が牛を引き連れて狭い広場を行き交うのを見て、熊太郎は「皆自分勝手」だと言う。自分こそは「全体のことを考えていた」と言い、そのために牛を川に落としてしまったのだと。熊太郎の理屈は一見すると正しい。しかし、裏を返せば理想論でしかない。皆が全体のことを考えて、周囲を気遣って効率よく作業をするというのは、実現するのはかなり難しいことだ。まず模範となるルールをつくらなければならないし、それを百姓一人ひとりに説明する必要がある。さらに、納得してもらわなければ意味がない。そもそも、これまで百姓の間で従ってきた暗黙のルールがあり、それに従って雑ではあるが長い間ようじょこの作業をしてきたのだ。そこにいきなり新しいルールを決め、これからはそれに従えと言っても、そもそも話を聞いてくれるかどうかすら怪しい。仮に実現できたら効率が良いやり方であっても、それだけの労力を費やしてまで徹底させる意味はあるのか。全体で見た場合に得られる効率と失う労力の収支はマイナスになってしまうかもしれない。

 世の中にある「常識」あるいは「社会のルール」というものの多くは、この「ようじょこ」のようなものだ。より優れた方法はあるものの、大局的な視点から見ればとりあえずそれが最適。不満はあるが怒るほどのものでなく、ルールを変えるまでのものでもない。それに従うこと自体にメリットがあるもの、それが常識だ。この世の中にあるあらゆる仕組みや組織はこの常識に従っている。常識の持つ矛盾に耐えられず、反発して生きることができるのは、常識をくつがえすだけの能力のある者だけだ。凡人がそれをすれば、社会から逸脱してしまう。逸脱の仕方はいろいろある。真正面から常識にたてつくやくざ者、思考で対抗する偏屈者、社会との接触を立つ引きこもり。彼らの考える「理想」というのは、「正義」とも言い換えられる。

 作中でも、熊太郎の考える正義が、世の中のルールを上手く利用している熊次郎の前にもろくも崩れ去った。その正義を何とか完遂するために、凡人の熊太郎は命を張るしかなかったのである。

 

 

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