五里 楽鯨(4)「大仏を演じる」

2016年10月29日

「昇合拾数と布教映画」

エキストラ・イニングス

 あらゆるものに専門家は存在する。映画の世界を見れば、照明、カメラマン、音声の専門家がいて、役者にも悪役専門の役者もいれば、噛ませ犬になって序盤で必ず死ぬ俳優もいる。洋画のアフレコをする声優がいれば、様々な道具で効果音をつくる専門家もいる。

 そんな中、スーツアクターというのは特殊な位置づけだ。俳優なのに、顔は全く知られない。常に着ぐるみを着て、人間以外の「何か」を演じるのだ。しかし考えてみれば、表情や声が出せない分、純粋な演技力が問われるのが、スーツアクターではないだろうか?

 

 

役者としての存在意義

五里 楽鯨(いつさと らくげい)

日本のスーツアクター第一人者にして、世界の特撮の歴史を作ったのが五里である。

20代で俳優を挫折、特撮黎明期にスーツアクターの経験を積み、「怪獣」の演じ方を一から築き上げる。

その後、自ら演じた怪獣とともに、太平洋を渡ってアメリカ大陸に進出。

国民的キャラクターを演じながらも、本名や素顔は誰にも知られない……日本一有名でありながら、日本一無名な自分と葛藤し続けた。

そんな彼の演じたキャラクターは、今もなお世界中の映画館で活躍を続けている。

 ひょんなことから特撮映画に参加し、怪獣を演じることになった五里。動物や格闘技の動きを参考にし、怪獣の役作りを開始。お手本がいない状況の中、彼なりに試行錯誤をしていた。その姿は、映画の中にしっかり記録されている。映画の序盤では、怪獣の動きに迷いが見て取れるが、後半では動きにパターンや規則性が現れる。

 

 初めて演じた怪獣は、動物園で見た高齢のゾウ、カバ、ワニといった大型動物の動きに加えて、無駄のない合気道の動き、そして街ゆく老人の動きを参考にした。いわば「怪獣の型」とも言えるその動きは、数年後に誕生し国民的怪獣となる「テッカドン」にまで受け継がれる。

 

 ここで注目しておきたいのは、五里は怪獣を演じることに決して乗り気ではなかったということだ。彼は責任感が強いために、自主的に役作りに励んだだけであった。加えて、当時の東宝は特撮を映画事業の核にしようと考えていた。つまり、特撮で怪獣を演じれば仕事に困ることは無かったのだ。役者として挫折した五里にとって、金と仕事が得られることはもちろん、例え怪獣役でも「オファーがある」こと、「求められる」ことが何よりも大切だった。

 

布教映画「大仏とゴキブリ」

 特撮黎明期ということで、東宝はとにかくたくさん映画を撮って、特撮のノウハウを築いていこうと躍起になっていた。そのために、今では考えられないような奇抜な映画を制作し、マニアの間で伝説とも言われているような作品も多い。その一つに、日本の新興宗教の教祖が携わった作品がある。いわゆる布教映画であり、大仏が主役、古今東西の宗教や神話に登場する神や怪物などが登場する作品がある。そこで、大仏をはじめとしたあらゆる神や怪物役として抜擢されたのが、五里だった。

 

 この時点で五里は、怪獣役には随分と自信を持っていた。その他にも、他国や宇宙からやってくる外敵から日本列島を救うという、いわゆる守り神の役も演じた経験があった。そもそも、怪獣でもなんでも、巨大なものは宗教的なニュアンスを含み、映画のテーマも神や宗教に結びつきやすいところがある。初めての経験とは言え、大仏役もなんとかこなせるだろうという自信が、五里にはあった。

「大きくて力強いというのは、怪獣でも大仏でも同じ。あとはそれをどう使うか。基本はできてるから、あとはイメージトレーニングで何とかなると、思ってました」

 

 さて、この映画の原案は、昇合 拾数(のぼらい ひろかず)という、日本の新興宗教の教祖がつくったものだ。彼が開いた宗教は「可神教(かしんきょう)」と呼ばれており、神の存在は認めながら「神とは何か」と、その在り方を問い続ける。全盛期には単独の宗教・宗派として信者数1千万人を達成している。昇合は元々神社の生まれであり、神道や仏教を下敷きにした宗教だが、その教えは独特である。それは映画のストーリーにも反映されている。

 映画「大仏とゴキブリ」 – ストーリー
 原案:昇合 拾数

 日本のとある地の山奥、そこに鎮座する巨大な涅槃像がふいに眠りから覚め、山を降り、狂った大仏となって暴れ出し、日本を飛び出して世界を闊歩。各地で自由の女神スフィンクスガネーシャといった神や怪物に戦いを挑む。一方、神を失った日本には新たな神が降臨。世界中の神を殺した大仏と、宇宙分け目の最終決戦を開始。しかし、戦いの途中で核エネルギーで巨大化したゴキブリが現れ、神は大仏とタッグを組んで世界を救う。荒唐無稽でありつつも、必要悪を肯定した現実的なテーマを描く、日本を揺るがす巨大スペクタクル映画。

 

教祖からの演技指導

 五里は台本を何度も読み込み、昇合が伝えたい世界観を研究した。日本仏教の歴史を学び、昇合の講演会に足を運び、映画に登場する神や怪物についても徹底的に調べ上げた。

「この映画での演技は、当時の僕にとって会心の出来だったんです。いや、今でも技術的な面では自信があります」

「『憑依』って言葉があるでしょ? あのイメージです。自分が演じるキャラの情報を詰め込んで、イメージして、憑依させるんです。霊媒師とかイタコみたいに」

「大仏でも自由の女神でも、誰も実際に動くところは見たことがない。でも、不思議なことに、当時の僕には見えていました」

 怪獣の動きを応用し、見事に大仏を演じあげた五里。現場のスタッフもその演技力には舌を巻いた。

 

 しかし、その中で唯一人、昇合は五里を徹底的に否定した。

「お前はただの頭でっかちだ」

 20代半ばにして、五里の演技力は一流と呼べるものだった。昇合は、逆にそれを危惧していたのだろう。例え理不尽でも五里には厳しく当たり、彼の能力を決して認めることはなかった。

仏教では誰でも仏になれる。それなら、なぜお前は大仏を「演じて」いるんだ?」
「仮に仏の姿が見えたとして、たかだか数日でどうしてそれを演じることができる?」
「仏を演じたいのか、仏になりたいのか、それとも仏を否定するのか」
「大仏の巨大な足の裏で踏み潰される蟻のような、そんな大仏になれ」
「大仏など存在しない。逆に言えば、すべての人間が大仏だ」

 まさに禅問答であった。この時に昇合からかけられた言葉を、五里は未だに心に留めているという。技術や経験を積み、プライドや自信を持っても、常にまっさらな気持ちで着ぐるみを着る。

「お前なんかより、その辺を歩いてるおっさんの方が仏だな」

 常に素人の気持ちで演じる……昇合との仕事で、五里が学んだ大切な心得だ。

 

続く