『鼻』芥川龍之介 – あらすじ[考察,解説,感想]

2018年5月18日

大きな鼻にコンプレックスをもつ僧のお話


芥川龍之介全集〈1〉 (ちくま文庫)

もくじ

<芥川龍之介『鼻』 – あらすじ>
  • あらすじで作品を理解しよう!
    • 矛大きく長い鼻で有名な僧
    • 鼻を短く見せようと苦心
    • 自分と同じような鼻を持つ者は?
    • ついに鼻が短くなった!
    • しかし、相変わらずバカにされる
    • 鼻が元に戻って喜ぶ禅智内供
<考察(解説)>
  • 矛盾した二つの感情、傍観者の利己主義
  • 同情心と優越感は表裏一体
    • 人はなぜ同情心を持っているか?
    •  妬みの感情が生まれる理由
  • 傍観者の利己主義とどう向き合うか
  • 子供のような禅智内供と、気遣いのできる弟子

芥川龍之介まとめ

芥川龍之介『鼻』 – あらすじ

自尊心・利己主義を描いた初期の名作

 鼻も芥川の作品の中では有名なもののひとつでしょう。羅生門と同時期に発表された作品であり、かの夏目漱石の称賛を受け、作家として生きていく上での転機となりました。その後、新作の注文を受けるようになり、「芋粥」を発表し、流行作家としての道を歩み始めます。

 鼻についての印象は、読みやすく、羅生門と同じく人間の心をテーマにしており、自尊心や利己主義について描いてあります。特に利己主義はエゴイズムと同意であり、これは羅生門においてはメインテーマでした。ただ、鼻においてはむしろ、エゴイズムよりは人間の自尊心、あるいは心の繊細さにスポットが当てられているように感じます。

あらすじで作品を理解しよう!

大きく長い鼻で有名な僧

 主人公である禅智内供(ぜんちないぐ)は、宮中に仕えるほどの僧でありながら、自分の大きな鼻にコンプレックスを持っています。鼻の大きさは尋常ではなく、あごの下まで垂れているほどです。当然ながら、彼と彼の鼻は町中の噂となっており、知らないものはいないほどです。それどころか、彼の鼻にまつわるエピソードが、都中に知れ渡っているほどです。

鏡の前に立って鼻を短く見せようと苦心

 禅智内供は傷つく自尊心を保とうと、これまでに様々な方法を試しては挫折する連続でした。

 第一に内供の考えたのは、この長い鼻を実際以上に短く見せる方法である。これは人のいない時に、鏡へ向って、いろいろな角度から顔を映しながら、熱心に工夫を凝らして見た。どうかすると、顔の位置を換えるだけでは、安心ができなくなって、頬杖をついたりあごの先へ指をあてがったりして、根気よく鏡を覗いて見る事もあった。しかし自分でも満足するほど、鼻が短く見えた事は、これまでにただの一度もない。時によると、苦心すればするほど、かえって長く見えるような気さえした。

引用元:「」(青空文庫)

 最初に試したのは鼻が目立たないようにする仕草や顔の角度はないか、鏡を見て探すという方法。思春期の子どもがコンプレックスに悩む姿によく似ています。これが位の高い僧というのが、なんともギャップがあって面白いです。

自分と同じような鼻を持つ者はいないか?

 それからまた内供は、絶えず人の鼻を気にしていた。(中略)一人でも自分のような鼻のある人間を見つけて、安心がしたかったからである。(中略)内供は人を見ずに、ただ、鼻を見た。――しかし鍵鼻はあっても、内供のような鼻は一つも見当らない。その見当らない事が度重なるに従って、内供の心は次第にまた不快になった。

引用元:「」(青空文庫)

 次に禅智内供がしたのは、自分と似た者を探すこと。同じコンプレックスを持つ人間なら、悩みもわかってくれる。あるいは、そういう人間がいることで少しでも自分が目立たなくなればという思いからです。しかし、自分ほどの鼻を持つ人はいくら探してもいません。むしろ傷つくだけでした。最後に禅智内供は、過去の偉人に同じような鼻をもつ人物はいないか文献をあたってみます。もし偉人の中に同じような鼻を持つ者がいれば、自分の悩みも少しは和らぐ……しかし、それも徒労に終わりました。

ついに鼻が短くなった!

 そんな中、弟子の僧が鼻を小さくする方法を医者から教わってきます。鼻を茹でて足で踏んでもらうという奇妙な方法でしたが、実際に試してみると、これまで悩んでいたことが嘘のように鼻は小さくなります。禅智内供はついにコンプレックスを解消したのです。

しかし、相変わらずバカにされる

 ところが、禅智内供の周囲の人間は、相変わらず彼を笑いものにしています。むしろ、以前にも増して、可笑しそうにしています。禅智内供はそのうち、鼻の大きかった頃を懐かしむようになり、やがて不機嫌になっていき、むしろ鼻が短くなったのを恨むまでになります。

 どうして周囲の者は笑い続けるのか? そこには、人間の持つ不思議な感情があったのです。

 人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。もちろん、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事ができると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張していえば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいような気にさへなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。

引用元:「」(青空文庫)

 芥川はこれを「傍観者の利己主義」と表現します。せっかくコンプレックスを解消したのに、周囲の人間の心までは変えられなかった。そういうわけで、禅智内供は再び鼻のことで悩んでしまうのです。

鼻が元に戻って喜ぶ禅智内供

 そんなある夜、禅智内供は鼻がむず痒く、熱を持っているのに気が付きます。すると翌朝、鼻は以前のように大きなものへと戻っていました。禅智内供は、鼻が小さくなった時と同じように喜び、もうこれで笑われることはないと安心するのです。

 

考察(解説)

矛盾した二つの感情、傍観者の利己主義

 物語のクライマックスは、鼻が小さくなっても尚、禅智内供を笑う人々と、その理由についての説明部分です。話の中ではそれを「人間の心に存在する、互いに矛盾した二つの感情」と言っています。該当箇所の引用を以下に示しておきます。

 ――人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。――内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからにほかならない。

引用元:「」(青空文庫)

 程度はどうであれ、上記のような人間の感情は誰もが抱いたことはあるでしょう。ある人は当事者として、またある人は傍観者として。このような感情を持つ人を見た、あるいはこのような感情が自分の心にあることに気が付いたことがあるはずです。

 芥川の言う「傍観者の利己主義」について、ここからもう少し詳しく考えていきます。

同情心と優越感は表裏一体

 傍観者の利己主義について、少々極端な言い方をしてみると、人間の同情心は、相手を見下したり笑いものにしたり、あるいは侮辱することによる優越感と表裏一体ということでしょう。例えば、非常に面倒見のいい人がいますが、そのような人は心の奥底、深層心理では、他人に対して差別的であったり否定的なところがないでしょうか? もちろんすべてがそうとは言いませんし、本人も無意識にそうしている場合が多いです。しかしながら、いろいろな人を観察していると、そのような傾向があると私は思います。

人はなぜ同情心を持っているか?

 歪んだ見方だと言えばそれまでですが、では、なぜ人は同情心を持っているのでしょう。それはもちろん、自分と親しい人間が辛い思いをしている。それをなんとか助けてあげたいからでしょう。では、なぜ助けてあげたいか? それは、相手を助けてあげることに幸せを感じるからです。友人が喜べば自分も嬉しいし、人を助けたことによる達成感もあるでしょう。しかし、人を助けてあげて問題を解決してあげれば、同じことで同じ喜びを味わうことはもうできません。ある意味では、幸せを一つ失ったこととも言えるのです。

妬みの感情が生まれる理由

 さらに、同情していた人間が問題を解決し、さらには自分よりも幸せになってしまったらどうでしょう? そこから妬みの感情が生じることは珍しくないでしょう。あるいは、「私のことも助けてよ」と見返りを求めることもあるでしょう。このように、同情できる人間がいなくなることは、人間にとって都合が悪い面もあるのです。この辺から、同情心が優越感と無関係であるとは言えなくなってきます。

(※ただ、だからといって同情心や面倒見の良い人を、私は否定しません。「やらない善より、やる偽善」という言葉もありますし、本人が無自覚であっても、そして無意識のうちに優越感を得るための行為だとしても、面倒見の良い人間は多くの人の役に立っています。多くの人を幸せにしています。そして、真に純粋な心から人助けをする方や、自己矛盾に気づきながらも、合理的な判断からそうしている方もたくさんいるでしょう。いずれにしても、面倒見の良さは素晴らしいことです)。

傍観者の利己主義とどう向き合うか

 上で長々と述べたように、人間の心は非常に複雑なものです。同情心とその裏にある優越感。そのような一見相反するような感情を同時に持つ人間の様を、芥川は「傍観者の利己主義」という非常に的確な表現をもって、一つの物語で描いてみせたのです。

 傍観者の利己主義。じっくり考えてみれば、これに似たものは他にもたくさんあるでしょう。では、人間はそれをどのように処理しているでしょうか? 一つは道徳心や理性でしょう。あくまで同情心にしたがって相手を助けるし、人の幸せは祝福する。また、相手の幸せは巡り巡って自分にも帰ると、プラス思考で考え、悪い感情を排除することもできます。あるいは、自身の利己主義などに気づかない、あるいは気にしない傍観者もいるでしょう。これはある意味で一番幸せかもしれません。同じように、傍観者が利己的な感情を持っているなど夢にも思わない当事者おいるでしょう。

 このように、物語のテーマについて考えて行けばきりがありません。一つの物語としてまとめ、明確な結論は出さないという芥川龍之介のやり方が一つの解決策かもしれません。しかし、皆がそうできるわけではないから、困ったものです。

子供のような禅智内供と、気遣いのできる弟子

 この作品はテーマの考察も面白いですが、登場するキャラクターも個性的で面白いです。やはり、禅智内供と弟子のやり取りが一番の見どころ。

 高尚な僧でありながら容姿を気にする禅智内供と、それに同情する弟子の僧とのやり取りがなんとも滑稽であることです。禅智内供を気遣う弟子と、鼻のことを気にしていることを悟られまいとする子供のような禅智内供のやり取りは、落語やコントのようで面白いです。

おわりに(感想)

コンプレックスと宗教的命題

 物語の中では、僧でありながら容姿を気にしている禅智内供が描かれてあり、禅智内供自身もそれを恥じているような記述があります。その鼻をとりまく中で、「人間の同情心」や「傍観者の利己主義」なるものが見えてきます。これはつまり、「容姿を気にするといった、些細な葛藤の中にこそ、宗教的命題が隠されている」と言うことだと思います。

隠す⇒共感を求める⇒心の拠り所を探す

 例えば、禅智内供が自尊心を保とうといろいろな工夫をするシーンがありますが、そこでは人間心理やそれに伴う行動について、的確に表現されています。始めに、禅智内供は鼻が短く見えるようにします。これは「隠す」という行為であり、最も単純かつ効果的な方法の一つでしょう。根本的な解決にはなりませんが、コンプレックスを抱える人間が始めにすることでしょう。次に彼は、仲間を見つけようとします。これは「痛みをわかちあう」ことであり、「共感」を求める行為です。悩みを隠すことから、むしろそれを打ち明けるといったものです。

 そして最後は、「心の拠り所」を探します。過去の偉人などが自分と同じ欠点を持っていると、何となく自身が湧いたり、慰められたりしたという経験はあるかと思います。これら行動の変化は、年齢や悩みの大きさに従ったものと言えるでしょう。ここまで来ると、人間が宗教を必要とする意味も、なんとなく見えてきそうです。

聖職者に容姿の悩みを抱えさせる面白さ

 なぜ「鼻」では主人公に僧を選んだか? それは物語としての面白さのためでもありますが、聖職者がコンプレックスに悩むことで、日常の些細な悩みと宗教の意義とは表裏一体であることを、表現する意味もあったのではないでしょうか。高尚な僧であればそれを理解しているはずなのに、コンプレックスとどう向き合うかわからず苦しむ。そういう意味では、地位や権力に対する皮肉も含んでいそうです。

参考文献など

「鼻」と「芋粥」は似ている?

  どちらも「王朝もの」と呼ばれる作品群の一つであり、書かれた時期も似通っています。特に、「羅生門」とあわせた3つの作品は、どれも人間の「エゴイズ ム」を描いています。詳しく言えば、「鼻」の場合は「傍観者の利己主義」であり、「芋粥」の場合は「願望」「自由」です。これがまず、一つ目の共通点で す。

 両者の違いについては、周囲の人間のエゴイズムに注目しているか、あるいは主人公自身の利己的な感情に注目しているかです。
 どちらも主人公も、せっかく願いがかなったのに、最終的には元の状態に戻ってしまいます。その理由は、「鼻」では周囲の人間の矛盾した感情ですが、「芋粥」では主人公自身の中にあった矛盾した感情となっています。