楽天イーグルス創設からの歴史まとめ[2013年優勝記念]

2017年11月4日

楽天イーグルス優勝おめでとう!

 野村監督就任から楽天イーグルスを応援してきましたが、創設9年目にて見事初優勝&日本シリーズ制覇を達成しました。このブログでは野球の記事をちょくちょく書いていたので、楽天イーグルスが優勝したということで、これまでの歴史を振り返ってみようと思います。

 そういうわけで、かつてイーグルスに所属していた山村宏樹さん著「楽天イーグルス 優勝への3251日 ――球団創設、震災、田中の大記録・・・苦難と栄光の日々 (角川SSC新書) 」のブックレビューを書いていこうと思います。

楽天イーグルス創設からの歴史 – もくじ

■球団創設から野村監督時代まで

  • 球団創設時選手分配の際の磯部氏の奮闘
    • サインプレーも一からつくる
    • 移動や食事、備品についての苦労
    • シーズン中も小学校訪問でファンサービス
    • スポーツジムでトレーニングの苦労話(2004年~2005年)
  • 野村監督時代のエピソード(2006年~2009年)
    • 選手ミーティングと「ノムラの考え」
    • 選手が相手チームを独自分析
    • 選手と監督の架け橋になっていた野村克則コーチ
    • 野村監督がイーグルスへ残した遺産

■東日本大震災から初優勝まで(2011年~2013年)

  • 震災とチームの変化
    • キャンプ中に起こった東日本大震災
    • 震災の年に変化していったイーグルス
  • 星野監督時代のエピソード
    • マー君の勝ち運の秘密
    • 仕事もプライベートもメリハリのあるマー君
    • 星野監督の選手起用と指導方法
    • ジョーンズとマギーの助っ人コンビの存在
    • 守備の要、藤田一也選手の秘密

 

球団創設から野村監督時代まで

球団創設時の苦労話(2004年~2005年)

選手分配の際の磯部氏の奮闘

 かつて近鉄バファローズに所属し、その後楽天イーグルス入団。退団後はコーチを歴任した礒部公一氏のエピソードです。磯部氏は選手分配の際にオリックスへ行くこともできたのですが、自らイーグルス入団を選択します。そして、バファローズ時代の裏方さんが困らないようにと、楽天イーグルスで仕事が得られるように奮闘されたそうです。

 選手分配の際にはいくつかのルールが設けられました。例えば、バファローズとオリックスの2チームの主力選手のうち25人をオリックスがプロテクトし、そこから漏れた選手を楽天と交互に選択するという方式です。当時主力選手であった磯部氏は、普通にいけばプロテクト枠に入れたものの、新たな球団を引っ張っていくためにイーグルス入団を選択したというわけです。

 黎明期のイーグルスの数少ない有名選手であり、引退後も含めてファンからの熱い支持をうけていました。

サインプレーも一からつくる

 野球ではサインプレーを多く行いますが、サインプレーは球団ごとに独自のものを使用しています。そうなると当然、親切球団のイーグルスでは一から作成する必要があります。夜のミーティングで選手と首脳陣が集まり、これまで各チームで使用してきたサインの方法を出し合い、オリジナルのものへ仕上げていったわけです。

 2017年現在、今ではすっかりおなじみの球団になり、1度の優勝に加えて、優勝争いも何度か経験するほどのチームになりました。それもこれも、黎明期の球団関係者の苦労の上に成り立っているということです。今では黎明期の楽天を経験した選手はほとんどいませんが、この時の苦労を忘れずにいたいものです。

移動や食事、備品についての苦労

 球団創設時の裏方のスタッフの中には、楽天本社から異動してきた職員もおり、不慣れなこともあって、いろいろな苦労が絶えなかったそうです。例えば移動の際の新幹線の席が確保できなかったり、遠征先での食事の準備の準備がままならない。さらに、シャワー室にタオルが無いといった、プロ野球選手にとっては当たり前ともいうべきことです。これらに加えて、新規球団ということで野球界の常識の部分、当たり前の部分でトラブルが連続しました。その際、選手からの意見をまとめて、フロントとその都度交渉をしたのが、あの山崎武司さんです。

 ファンからすると、山崎さんはイーグルスの初代4番・大黒柱というイメージが強いです。特に野村監督時代は、選手のまとめ役であり、信頼も厚かったです。このエピソードからもわかるように、創設当時からリーダーとして先頭に立っていたので、厚い人望を得ていたのでしょう。

 ちなみに山崎武司さんは、引退後は解説やバラエティ番組出演のほか、2014年からはモータースポーツにも挑戦しています。ラジコン好きも含めて車が大好きというわけです。いつかは球団に戻って来て、コーチや監督をしてもらいたいものです。

シーズン中も小学校訪問でファンサービス

 親切球団かつ東北初の球団ということで、創設当時からファンサービスにはかなり力を入れてきたそうです。どんなことをやっていたかと言うと、例えばシーズン中の午前中を利用しての、1軍選手の小学校訪問です。著者の山村氏も、登板日の翌日、あるいは翌々日に訪問するなど、シーズンを通して継続的に行われていたようです。訪問のファンサービスは、若手が数人でシーズンに数える程度しかやらないのが一般的なところ、まさに「異例」だったというわけです。

 地道なファンサービスの結果、今ではすっかり宮城に根付いた球団になり、周辺の東北の地方でもどんどンファンが増えてきています。

スポーツジムでトレーニング

 創設当時は設備面で不十分なところが多く、トレーニングも仙台市内のジムを利用していたそうです。遠征中の場合は、相手チームのトレーニング施設の利用ができたそうですが、交流戦の際には問題がありました。セ・リーグは予告先発制度がないために、情報が漏れるのを防ぐため相手チームへの施設の開放が制限されていたのです。

 そんな時には、トレーナーの方がジムの予約をインターネットで毎回行っていたそうです。プロ野球では食事やトレーニング、あるいは宿舎などの手配はあって当たり前のものです。しかし、一番大事と言ってもいいトレーニング面でも不備を抱えていたのが、創設当初の楽天イーグルスだったというわけです。数々の苦労話を聞くと、当時を経験した人たちの結束力は非常に強かったのだろうと思います。

野村監督時代のエピソード(2006年~2009年)

選手ミーティングと「ノムラの考え」

 野村監督と言えば、ヤクルト時代から阪神、そして社会人チームのシダックス時代を含めて、選手ミーティングをしっかりやることで知られています。楽天イーグルスでもそれは変わらず、例えばキャンプ中は休日の前日を除いて、夕食後に毎日行っていました。

 ただし、楽天時代には以前とは異なる点がいくつかあったそうです。例えばミーティングの時間は1時間以内にし、選手にメモを取らせるという点です。これは過去の監督時代、ミーティング中に寝てしまう人がいたからだそう。野村監督の指導は、後になってその大切さがわかると言われています。例えばヤクルト時代の選手は、ミーティングに違和感を感じたり、野村監督の指導内容の意図がわからかったと言います。

 しかし、いざ成績が上がった時、あるいはチームが強くなった時、その理由を考えてみれば知らない間に監督に教えられたことをしていた、という声を良く聞きます。また、選手を引退してから指導が役にたっと言う声も多いです。

選手が相手チームを独自分析

 シーズン中もバッテリーミーティングには必ず顔を出していたという野村監督。その内容は独特のもので、スコアラーが来る前に個々の選手が相手チームや打者を分析し、意見を出し合うというものでした。ここで、前述のミーティングの成果が発揮されます。野村監督の考えを叩きこまれた選手は、知らない間に相手チームを独自分析できるよっていたわけです。

 スコアラーの役割は、例えば配球のデータを集めて分析し、配球の癖や傾向を発見するというものがあります。そのスコアラーが来る前に選手間で独自分析と意見交換をし、その結果とスコアラーの分析結果を照らし合わせるわけです。単にデータを与えられるよりも、自分で考えた上で実際のデータとの照会をする方が選手自身も納得できるし、分析力も鋭くなります。

 2005年に急増した弱小チームが、たった4年でリーグ2位になったのも、これらのミーティングの成果あってのことでしょう。

選手と監督の架け橋になっていた野村克則コーチ

 かつて楽天に在籍し、そのまま2軍育成コーチに就任した野村克也さんの息子の克則氏。2008年には1軍のバッテリーコーチになりますが、そこには人柄の良さと人望の厚さに加えて、監督へのパイプ役としての意図があったようです。

 他にも野村克則コーチのエピソードとして、嶋選手への厳しい指導があります。具体的な指導をあげると、例えば架空の状況を想定してサインを出させ、その根拠を細かいところまでとことん答えさせていたそう。野村監督は常々キャッチャーの重要性を説いていますし、キャッチャーとしてプロ経験のある克則コーチもそれを感じていたのでしょう。

 選手時代の克則氏はとにかく練習熱心で、努力家だったそうです。2017年現在に至るまで、様々な球団を渡り歩いているのは、決してコネなどではなく、克則氏の人柄が理由というわけです。

野村監督がイーグルスへ残した遺産

 2013年、星野監督によってみごと優勝した楽天イーグルス。野村監督が土を耕し種をまき、星野監督の時代に花開いたとも言われています。実際に、現在の楽天イーグルスにも、野村監督が作り上げた基礎データとミーティングの習慣が残っているそうです。ミーティングがいかに綿密であるか、ピッチャーが参加するミーティングを例に、その流れを見てみましょう。

  1. スコアラーによるデータとコメント付きの資料確認
  2. 実際の相手チームの映像を見て、スコアラーに助言を仰ぎつつ、個々に研究
  3. スコアラーの部屋で対策を練る
  4. コーチによる打者研究

  資料を見て個々に研究し、スコアラーと共に対策を練り、最後はコーチによる研究をする。データ野球が当たり前になった現在でこそ、これらのことは多くの球団で行われています。ただ、一度個々に研究をさせるというところは、野村監督ならではといったところでしょうか。親切球団だからこそ、基礎を大切に綿密に対策を練り、限られた戦力で最大限の結果を出していたというわけです。

東日本大震災から初優勝まで(2011年~2013年)

震災とチームの変化

キャンプ中に起こった東日本大震災

 2009年のリーグ2位とクライマックスシリーズ出場を経験し、チームの戦力は整ってきました。そして2011年、優勝請負人とも言える星野仙一監督が就任し、新たなチーム作りへと移行していきます。しかし開幕前のキャンプ時に震災が起こります。選手は当時兵庫県におり、仙台に帰ってきたのは4月7日。わずか1ヶ月の間に変わり果ててしまった街の様子に驚く間もなく、その日の夜に震度6の余震を経験し、地震の恐ろしさを実感したそうです。

 ちなみに、イーグルスに2009年から投手コーチに就任した佐藤義則さんは、出身は北海道の奥尻島(93年の北海道南西沖地震に伴う大津波で甚大な被害を被った)、現役選手としてオリックス在籍時に阪神大震災(95年)を経験。そしてこの年に、楽天のコーチとして、本拠地が東日本大震災に見舞われたのです。誰よりも地震や津波の恐ろしさをよく知っていたため、選手の家族について非常に心配していたそうです。

震災の年に変化していったイーグルス

 2011年は残念ながら5位に終わってしまいました。そして、オフには初期の楽天を支えた山崎武司選手の移籍、エースの岩隈選手もメジャーリーグへ移籍してしまいます。その一方で、もう一人のエース田中将大選手が19勝を挙げて沢村賞を受賞するなど、大きな変化がありました。

星野監督時代のエピソード

マー君の勝ち運の秘密

 星野監督時代には、田中将大選手はチームはもちろん、球界を代表するエースになっていました。そんな田中選手のすごさとして、「マー君が投げると打線が点を取る」「勝ち運がすごい」と言われるようになりました。投手によって援護率が変わるというのは、単なる偶然なのか? これについて、当時の楽天の二遊間である松井稼頭央選手と藤田一也選手が回答しています。

 それは「非常に守りやすい」というものです。田中将大選手はコントロールが良く、守る側としては打球の予想が立てやすいそう。これによってファインプレーが増え、要所で試合を締める。加えて、守備の負担が少ないことで打席に集中できる。いわゆる「守備のリズム」が良くなり、打線が本来の力を出しやすくなるというわけです。

 2017年現在、マー君はヤンキースで4年目のシーズンを終えました。マー君はメジャーリーグでも不思議と援護率が高く、高い勝率を維持しています。

仕事もプライベートもメリハリのあるマー君

 当時の投手陣のリーダー的存在だった小山伸一郎選手は、マー君の勝ち運について、メリハリの良さを挙げています。若い頃はピンチの際に力んで押さえつけるようなピッチングをしていたのが、2013年には「最終的に点を取られなければいい」と考えるようになり、ピンチの時でも力まず投げていたそうです。マー君はピンチに強いですが、気持ちは出しても力みは出さない投球が、その理由なのでしょう。

また、興味深い話として、マー君はプライベートでもメリハリの良さがはっきり出ていたそうです。加えて、精神年齢が非常に高く、「大人」だと小山選手は語っています。確かに、田中将大選手は楽しむときは楽しみ、真剣なときはとことん真剣。練習中でも大きな声と笑顔で全体を盛り上げたかと思うと、試合では人を寄せ付けないような雰囲気を醸し出します。

星野監督の選手起用と指導方法

 星野監督は実力ある若手を我慢してでも起用し続けます。これはタイガース時代も含めて言われていることです。加えて、選手の人心掌握能力が高いのも特徴です。イーグルスでも、2013年の優勝に貢献した選手には銀次枡田岡島島内聖澤選手など、若手の台頭が目立ちます。彼らは星野チルドレンなどとも呼ばれています。2009年のクライマックスシリーズ進出のメンバーとガラリと入れ替わっています。

 そんな星野監督が選手を起用する際には、能力だけでなく、性格、生活態度、育った環境など人間性に注目しているそうです。例えば、星野監督は負けん気の強い性格の選手を好みます。これに該当するのは、タイガース時代では赤星憲広さん、イーグルス時代では聖澤選手や銀次選手、あるいは田中選手などの名前があがります。とりわけ銀次選手などは、星野監督を父親のように慕い、優勝の際には抱き合って大泣きしていたほど。

 また、選手指導の方法も独特のものがあります。例えば試合中は、試合中に感じたイメージの部分を伝選手にえ、ミーティングでもデータより精神面で選手を鼓舞しているそうです。星野監督はイメージを言葉にして伝えるのが上手で、監督の一言がきっかけで選手が変わることも多かったそう。

 星野監督は阪神・楽天時代共に、野村監督の後を継いでチームを優勝に導いています。野村監督が基礎を叩き込み、星野監督が優勝へのひと押しをするということで、チームの力を最大限に、いやそれ以上に引き出していたのでしょう。

ジョーンズとマギーの助っ人コンビの存在

 2013年の優勝を語る上で欠かせないのが、2人の外国人助っ人の存在です。メジャーで10年連続ゴールドグラブを獲得し、2000本近いヒットと400本を超えるホームランを放ったスーパースターのアンドリュー・ジョーンズ。メジャーでシーズン100打点を記録し、楽天時代を経てメジャー復帰した際にはカムバック賞を受賞。2017年には再び日本球界に復帰し3割を超える打率を記録したケーシー・マギー

 当時のメディアでも良く報道されていましたが、この2人は共に練習態度が素晴らしく、勝利最優先の選手でした。とりわけジョーンズ選手はメジャーで長く活躍し、経験豊富な選手でした。そのため、ここぞという時の集中力が素晴らしく、同点・逆転の場面でタイムリーやホームランを打ちました。打率は低いが確実に出塁し、ここぞという時で打つ。非常に頼りになる選手でした。他にも、彼らはチームに馴染むために日本語の習得にも熱心だったそうです。この点は、楽天に5シーズン在籍し、2013年には途中からストッパーの役割も果たしたラズナー選手も共通していたそうです。

 はっきり言って、2013年の優勝はジョーンズ・マギーのクリーンナップなしにはありえませんでした。

守備の要、藤田一也選手の秘密

 2013年は藤田選手のファインプレーを何度も目にしました。ショートの松井稼頭央選手とのコンビも良く、見ていて非常に楽しかったです。そんな藤田選手は、守備の際には配球とコースを1球毎に確認し、前後左右に2~3歩ほどという微妙な守備位置の変更をしているそうです。

 ちなみに、バッターごとに守備位置を変える選手として、同じく二塁手だった仁志敏久さんがいました。
彼の場合は、テレビ中継で見ていてもはっきりわかるほど、大胆な守備位置を取っていました。
それと比べると、2~3歩の変更というのは非常に細かく、ちょっとの差で結果が大きく変わることがよくわかります。