広島カープの歴史[誕生秘話,名前の由来,マツダとの関係,市民球団]

『広島カープの歴史』 – もくじ

<広島カープの歴史と球団経営>

  • 広島カープの球団経営
    なぜ「市民球団」と呼ばれるのか?

    • マツダ(株)・松田家・カープの関係性
    • マツダ(株)と松田家の関係性
  • 広島カープ誕生と名前の由来(1949年)
    • 親会社がいないままにチームを急造
    • 「広島カープ」名前の由来・意味
    • チームはできても選手がいない
  • 株式会社広島野球クラブの設立(1950年)
    • 資金不足、給料未払い
    • なんとか球団設立
  • 「樽募金」が球団合併の危機を救う(1951年)
    • 幻のオーナー企業と決まりかけた合併
    • カープ後援会発足と樽募金
    • 広島カープは市民が支えている
  • 東洋工業と松田家の登場(1955年~)
    • 株式会社「広島カープ」の誕生(1955年)
    • 広島市民球場の誕生(1957年)
    • 松田恒次が球団社長に(1963年)
  • 広島”東洋”カープの誕生
    • 松田家及び東洋工業が筆頭株主に(1968年)
    • 25年目の初優勝と累積赤字の解消(1975年)
    • 広島カープ創立から現在までの成績
【参考文献・サイト等】

広島カープの歴史と球団経営

広島カープの球団経営
なぜ「市民球団」と呼ばれるのか?

 なぜ広島カープは「市民球団」と呼ばれるのか? 実はこれこそカープファンが一番知りたい、かつややこしく感じているところかもしれない。管理人の私もそうであった。歴史の項でもその流れを追っていくが、最初にわかりやすくまとめようと思う。実際調べてみたら、ややこしいが非常に面白い。皆さんも楽しんでみて欲しい。勉強になること間違いなし! この知識で野球好きの女を虜にし、カープ女子をまな板の鯉にしてやろう(適当)。

2017年現在のマツダ(株)・松田家・カープの関係性

  • オーナー:松田家(松田元)≒個人
  • 球団社長:松田家(松田元)
  • 球団の運営:松田家一族
    独自採算であり、自治体・地元企業・市民の資金面での支援を受けている。
    (自治体(市・県)、地元財界、市民(税金、寄付))
    ※創設間もない頃に市民が資金援助で球団消滅を救い、樽募金によって2度の球場建設を支援してきた。
    「広島東洋カープは(資金援助という意味での)オーナーのいない市民球団」
    ※松田元氏はマツダ創業者から数えて5代目、オーナーとしては3代目

マツダ(株)と松田家の関係性

  • マツダ(株)・松田家は「(株)広島東洋カープの筆頭株主」
  • マツダ(株)の経営≠松田家
    ※松田家はマツダ(かつての(株)東洋工業)の創業者だが、現在マツダとの経営面の関係性はほぼ無いと思われる。
  • マツダ(株)の歴史
    マツダは1970年ごろからフォードとの共同事業を開始。79年には業務提携開始。それに伴い、松田家による一族経営は4代目の77年までで終了。現在も社長・CEO及び取締役に松田家の一族の名前は無い。
  • 松田家の役割は「(株)広島東洋カープの運営」と考えれば良い

参考:マツダ – Wikipedia

 非常にややこしいが、これで大体合っているはず。松田家が途中でマツダの経営から手を引いたこと、「東洋」の名が今も残っていること、独特の資金源が広い意味で「市民」という3点が、広島東洋カープの球団経営をややこしく感じさせるというわけだ。しかし、ややこしいけど素晴らしい球団経営ではないか! こんな球団は日本で唯一だし、自治体が球団支援に積極的なメジャーリーグだって驚くだろう。

 なぜ広島カープのファンは熱心で、チームが死ぬほど愛されているか。その答えもここに隠されていると思う。

 では、広島カープ創設からの歴史をざっと振り返っていこう。

広島カープ誕生と名前の由来(1949年)

親会社がいないままにチームを急造

 1949年のリーグ分裂騒動・2リーグ制移行の前後で、広島を本拠地とする球団創設の機運が高まり、中国新聞社などが中心となって、地元の政財界に呼びかけを開始。そこには戦後の広島復興と言う大きな目的もあった。

 中心人物は、中国新聞東京支社の社長を始めとして、地元の銀行、鉄道会社など財界団の人々と、戦前に数年間だけ存在していた球団「名古屋金鯱軍」代表の山口勲という人物。そして、彼らが頼ったのは広島出身の衆議院議員で広島カープの名付け親となる谷川昇である。

 球団すらできていなく、人材の確保、組織づくりもままならない中、谷川はチーム名を考えることにする。いろいろな情報をあたると、戦後のゴタゴタの中で無理くり急造したという雰囲気が伝わってくる。今では考えられない話だが、この時できたチームが半世紀以上継続しているというのは驚きだ。

カープ女子真っ青!
「広島カープ」名前の由来・意味

  • 1.「カープ=鯉」は縁起が良い(出世魚、鯉のぼり)

 さて、谷川氏はどのようにして「広島カープ」という言葉にたどり着いたのか? そもそも、カープと言うのは[carp]つまり「鯉」を意味する。なぜ鯉なのか。鯉はご存知の通り、縁起のいい魚として知られる。鯉のぼりなどの文化も、子供がすくすく育つようにと言う意味がこめられている。

 ここでちょっと脱線するが、なぜ鯉は縁起が良いのか? これはもはやカープの由来とは関係がないが、面白い話なのでちょっと紹介。

 鯉は「出世魚」の一つだが、ブリとかスズキのように成長に伴って名前が変わるわけではない。ではどうして「出世」なのか。それは、1500年前の中国の歴史書「後漢書」まで遡る。いやまて、カープの話をしてるのに、後漢書とはどういうわけだ? カープの名前の由来を知りたいカープ女子は今頃パニックである。しかし、カープ女子にもこの深い歴史をしってもらいたいのだ。

 その歴史書の中に登竜門」という言葉の由来になった一説がある。ある中国のお偉いさんは非常に厳しいお方で、彼に認められれば出世は確実。それをある中国の伝説(「龍門」と呼ばれる急流を登りきった鯉はに進化する)になぞらえて「竜門に登る=登竜門」と表現したそうな。

 はあ、なるほど、勉強になったわい!

  • 2.広島の中心地を流れる太田川は鯉の産地

 原爆ドームや広島城の脇を流れるのが太田川。どうやら広島では象徴的な川らしいが、その川は鯉の名産地なのだ。そして、広島城も鯉城と呼ばれている。そうなりゃ、もうカープしかないだろう。カープはきちんと地域に根付いた縁起のいい由来があるのだ。ジャイアンツとはわけが違うぜ!

 それにしても、鯉が出世したら竜ということは、最初から竜のドラゴンズはカープに強いのだろうか。そして竜に勝てるのは、セリーグならベイスターズ(海の星)しかいないなあ(?)。昔ホエールズ(クジラ)だったし、クジラなら竜にも勝てそうだ。そんな思いを胸に、話はどんどん進むのである……。

チームはできても選手がいない

 チームを正式に日本野球連盟届出したのは、発足に向けて本格的に動き出してからほんの1ヶ月後。そしてさらに2か月後に、正式にセ・リーグへの参加が承認された。行動力がすごいのか、あるいはそういう時代だったのか。いずれにしてもチームはできた。

 気になるのは監督や選手。監督はプロ野球黎明期に数々の球団で指揮をとった石本秀一氏に決まったが、選手は全く足りず、新人採用テストや他球団からの支援によってなんとかかき集めた。

 チームはできたが本当にプロとして戦っていけるのか? 

株式会社広島野球クラブの設立(1950年)

資金不足、給料未払い

 当時のカープはオーナー企業などおらず、自治体からの出資と市民への株式公募を資本にするという予定だった。しかし、当然ながら問題が次々と起こる。

  • 弱小であるが故の収入不足(当時の入場料は「勝利チーム:敗北チーム=7:3」に分配)
  • 予算執行の関係で県・市からの出資が遅延
  • 出資金が足りない(予定の半分ほど)

 まずは資金不足である。オーナーが無い企業がチームを作るなど、現代で言えば絶対にありえない。いくら野球黎明期でもやはり金がないと球団は成り立たない。そこから二次的な問題が起こる。

  • シーズン開始2か月めで選手の給料未払い発生
  • 野球用具を一括で注文するも代金未払いで店を倒産させる

 まさに悪夢である。現在なら逮捕者が出る勢いだ。

なんとか球団設立

 しかし、それでも気合いで9月に「株式会社広島野球クラブ(=球団)」を発足させる。さらっと言ったがこれもすごいこと。チームが先で球団が後。例えるなら、寄せ集めの選手たちで東北地方を本拠地に勝手に試合に参加し、シーズン終了間際に「東北イーグルス」という球団が発足し、幻のオーナー企業「株式会社楽天」はまだ助けに来ない、という状況である。無理な例えだが、こういうことだ。

 当然選手達は怒り狂い、年末になってようやく給料は支払われたのだった。

樽募金が球団合併の危機を救う(1951年)

参考サイト等

幻のオーナー企業と決まりかけた合併

 初年度の複数回に渡る財務的な危機を受けて、セリーグ連盟は広島カープに対して大洋(旧大洋ホエールズ)の傘下に入ることを勧める。
(※旧大洋ホエールズは当時、大洋漁業(山口県下関市)がオーナーの球団で現在の横浜ベイスターズのに繋がる)

 あくまで広島カープの存続を望む球団は、ここからオーナー企業を探すことにした。候補にはサントリー(大阪)、専売公社(現:JT)、アサヒビール(当時は大阪)などの大企業があがったが、いずれも頓挫。そんな中、「広島市での役員会にて大洋との合併決定」という報道が流れるも誤報であり、石本監督らの説得でぎりぎりのところで合併は阻止され、広島市民への援助を呼び掛けることとなった。

カープ後援会発足と樽募金

 球団は資金集めのために後援会を発足し、支援金を市民に向けて広く募った。カープが市民球団と呼ばれる所以は、このあたりの事情も大きい。石本監督はメディアと自分の足を使って街中を駆け回り、市民たちに呼びかけた。その結果、個人・組織単位で数多くの希望者が集まった。また、ここで有名な「樽募金」も始まっている。広島総合球場前に酒樽を設置し、ファンや市民がカンパするという何とも原始的な方法だが、ある意味でそれが広島カープの存在意義、市民の思いの象徴であった。

 この年は市民からの多大な支援を受け、支援金の総額は400万円を超えた。広島カープが設立当初に自治体から集めた金額は1000万円(予定額は2000万円)、加えて当時当時の物価は現在の1/20~1/10ほどと思われる(参考:昭和戦後史 – 昭和戦後データ)ので、その額の大きさがうかがい知れる。結果的に球団は黒字となり、まさに市民によって球団および広島カープは危機を乗り越えたのである。

広島カープは市民が支えている

 この樽募金は平成に一度復活したことがある。2008年の新球場設立の際である。新球場である現マツダスタジアムは、総工費140億円ほど。そのうち樽募金は1億円を超えたが、さすがにそれだけでは賄えない。さすがに「市民が支える球場」というのは建前かと思うがそうではない。

 総工費の負担の内訳をみると、6割はカープを始めとする球場利用者が負担することになっているが、残りの4割は大きい順にに「広島市の税金」「財界の寄付&県の税金」「交付金・補助金」となっている(参考:『ドケチな広島、クレバーな日ハム、どこまでも特殊な巨人』伊藤歩(2017)星海社,第一刷,p.199)。県と市の税金等は合計で2割を超える。また、球場利用者が負担となっているが、それもファンあってのもの。したがって、やはり広島カープは市民(県民)が支えていると言えるわけだ。

※広島カープが「市民球団」と呼ばれる理由には樽募金やこれらの球団創設期の支援があるが、それ以外にも球団経営上の理由が大きい。それについては後述する。

東洋工業と松田家の登場(1955年~)

株式会社「広島カープ」の誕生(1955年)

 ここまで球団を担っていた「広島野球クラブ」だが、数年の間に負債は大きく膨らんでしまい、後援会の支援も追いつかない状況となっていた。そこで手を差し伸べたのがマツダ(株)の前身である東洋工業及び社長の松田恒次である。ご存じの松田家であり、現在も広島東洋カープの筆頭株主となっている。当時は1951年に3代目として社長に就任したばかりであった。

 松田氏によって負債の帳消しと球団を引き継ぐための新会社設立が提案され、「広島野球クラブ」は「広島カープ」として生まれ変わる。資本金は東洋工業に加えて、カープ創設当初から支援していた中国新聞社や広島電鉄を始め、地元の企業が捻出。球団社長は広島電鉄社長が務めることとなった(※1963年からは松田恒次が務めることとなり、現在まで松田家が社長を歴任)。

広島市民球場の誕生(1957年)

 オーナーが決まり球団名も変わった1955年。その時点ですでに広島市民球場の青写真は出来上がっていた。そして1957年初め、広島市の寄付金による支援のもと、新球場建設が開始。5か月後に完成し、そのまま開幕試合を迎えることとなる。

松田恒次が球団社長に(1963年)

 ここで松田家が球団社長となり、以降は松田一族が歴任することとなる。加えて、この時期に松田家及び東洋工業に株式が集約されていく。

 この頃のチームはどうなっていたか? 球団の資金面も強固になり、球場も完成。チームの戦力もまともになってきた。加えて、1975年の「赤ヘル旋風」で知られる初優勝に向けて、後にスターとなる選手が入団している。

 巨人はすでに王・長嶋が揃い、2年後に伝説のV9時代を迎える。こうして見ると、広島カープは戦後に急造され、幾多の苦難を乗り越えてなんとか生き延び、昭和のプロ野球全盛時代に滑り込みセーフで間に合い、それから10年後に初優勝をするというわけだ。初期のごたごたを切り抜けた地元企業自治体を含む市民の力がいかに大きな意味をもつかよくわかる。

広島”東洋”カープの誕生

参考:

松田家及び東洋工業が筆頭株主に(1968年)

 この年、東洋工業(現マツダ)社長である松田恒次が筆頭株主となる。この時点では松田家がオーナーであり、同族経営の球団となる。それに伴い、球団名は広島東洋カープに変更。マツダ、松田家、球団の関係はちょっとややこしいところがあり、以降もその関係性は変化する。これについてはこの後で説明する。

 さて、この年にはプロ野球界では有名な人物はチームに加わる。監督はあの根本陸夫氏。後の西武黄金時代とホークス黄金時代を築き上げた人物であり、トレード・ドラフトをある意味で支配し、球界全体の人材編成におけるドンとなった人物である。

 また、こちらも野球ファンの間で非常に有名である山内一弘氏が選手として入団している。彼はコーチとして長く活躍し掛布雅之田淵幸一原辰徳といった名選手を指導して実績を積んだが、その一方で難解な打撃理論が賛否両論を呼び、落合博満イチロー新庄といった選手とは相性が悪く、有名なエピソードを残している。

 またこの年、チームは初のAクラス入りを果たす。球団創設から約20年目のことだ。そしてここから初優勝までさらに7年。新設かつ資金力に乏しい球団の苦労の様子がうかがえる。

25年目の初優勝と累積赤字の解消(1975年)

 1970年代前半のカープは検討を見せ、もはや万年最下位でもBクラスの常連でもなくなり、優勝も狙える戦力が整いつつあった。

 そして先述した衣笠・山本の活躍もあり、1975年についに初優勝を果たす。その後の優勝のタイミングも合わせて次の項で見てみよう。

広島カープ創立から現在までの成績

  • 1950年~1967年 18年連続Bクラス(史上2位)

 球団創設から長きに渡り低迷が続く。歴史をみればこれも致し方ない。

  • 1975年 初優勝(創設25年目)
  • 1979年 初の日本一(創設)
  • 1980年 2年連続日本一
  • 1984年 3度目の日本一
  • 1986年 リーグ制覇
  • 1991年 リーグ制覇

 80年代はまさに広島黄金期である。続く90年代も6度のAクラス入りを果たしており、決して弱小チームではなかった。

  • 1998年~2012年 15年連続Bクラス

 2000年代は球団創設期に次ぐ暗黒期である。しかし、2010年から監督に就任した野村謙二郎の手により、チームは徐々に力を蓄えていく。

  • 2013年 初のCS出場(3位)※CSは2位
  • 2014年 2年連続CS進出(3位)
  • 2016年 優勝・日本シリーズ進出(25年ぶり)
  • 2017年 優勝(CSは2位)

 初優勝が創設25年目で、2016年の優勝が25年ぶりというのは興味深い。広島カープというチームは、15年前後の暗黒期を挟んで10年ほどの黄金期を迎える球団のようだ。確かに2017年現在の戦力バランスは素晴らしいので、あと3年ほどは黄金期が続いても何も不思議ではない。

 限られた資金で選手育成や戦略・戦術に力を注いだ結果であり、いくつかの要素が合わされば優勝までいける。それが広島カープである。仮にカープに強力なオーナー企業がつき資金援助を積極的に行ったとすれば、広島カープはV9を達成できるのではないかと、半分本気で思う。